コンビニ人間

「普通」とは何か? 現代の実存を軽やかに問う第155回芥川賞受賞作。 

 36歳未婚、彼氏なし。コンビニのバイト歴18年目の古倉恵子。日々コンビニ食を食べ、夢の中でもレジを打ち、「店員」でいるときのみ世界の歯車になれる――。 

「いらっしゃいませー!!」 

お客様がたてる音に負けじと、今日も声を張り上げる。ある日、婚活目的の新入り男性・白羽がやってきて、そんなコンビニ的生き方は恥ずかしい、と突きつけられるが……。 

 『コンビニ人間』は、朝のコンビニエンスストアのシーンから物語がはじまります。 店内放送やひとびとの声、パンの袋がたてる乾いた音、OLが履いているヒールの音、すべてがコンビニの音となって溢れかえる店内。主人公の古倉恵子は、お客さまの一挙一動からその思惑を察して脊髄反射のようにすばやく、最適な接客をします。まさに模範的なコンビニ店員と言えるでしょう。

  “コンビニ店員として”生まれる”前のことは、どこかおぼろげで、鮮明には思いだせない。郊外の住宅街で育った私は、普通の家に生まれ、普通に愛されて育った。けれど、私は少し奇妙がられる子供だった。”

  そう、まさに彼女はコンビニアルバイトという肩書きがアイデンティティになっている、コンビニ人間だったのです。 

 ところで、コンビニ店員として忙しなく生きる古倉恵子の元に、ある日、白羽という新人アルバイターが現れます。風変わりな彼女とおなじように、白羽も社会不適合者です。また彼は、誰よりも普通というものを憎悪しながらも、普通になろうともがき苦しみます。なんとか社会に迎合しようとするこの葛藤は、古倉恵子にはないものでした。 
 私はなんだか、彼の気持ちが痛いほどわかる様な気がするのです。普通ではない人間がありのままで生きることはとても苦しい。己の異常性をひた隠しに生きることを『仮面』『道化師』『擬態』などと揶揄しますが、そういったなりすましをする人物の物語はこの世界に溢れかえっています。それもそのはずです。だって、この世界には『コンビニ人間』に描かれているような”普通”という基準があるのだから、そこからあぶれる人たちの物語は増えていくのでしょう。

 白羽という登場人物を通して思い出したのが、日本の就職活動でした。みんながみんな黒髪、リクルートスーツ姿という画一化された姿になる就活。台本化されたQ&Aがくり返され、合否が決まっていきます。就活を宗教みたいで気持ち悪い、不気味だと思いながらもみんな従っていますよね。この大きな”普通”の一員になっていますよね。なるべく目立たないように、社会に攻撃されずにより生きやすくするために。

病的なまでに普通に無関心な古倉恵子。 

病的なまでの普通にこだわる白羽。 

 両者の主張や考えを読んでいくと、作者である村田沙耶香の訴えのようなものが切々と胸に迫ってくるような気がするのです。

多数派は正義なのか。

多数派は正解なのか。

多数派は普通と同義なのか。

 そもそも普通なんて形のないもの、曖昧なもののはずなのに、私たちは普通というイデアを追い求めて生きている気がします。私たちは社会でしか生きられない生物だから、やはり古倉恵子のように個性を殺して社会の歯車として生きるべきなのでしょうか。それとも白羽のように、社会的な普通に抗いながら、自分らしく生きようとしてみるべきなのでしょうか。

 普通とは何か?と考えずにはいられない一作です。

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